すっかり空が高くなりましたね。
美味しいさんまが食べたいです。
さて、前回の続きなのですが、典型的な例をあげれば、理科の教師は基礎研究が驚嘆すべき技術の進歩へ道を開いたような、いくつかの標準例を興奮しながら語ったり・・・
また、その種の応用例の枠内で苦心して問題を作ってみたりして、技術についてのひどく一面的な見方を述べます。
その際、人類の必要に応じる科学的技術の実際の能力、その種の必要の現実における範囲と相対的優先度、科学が用いられるようになる政治経済的な状況・・・
その他多くの文化的現実的諸側面は、ほとんど無視されてしまうのです。
このように、科学教育は、病気・貧困、飢柔暴力や人間をめぐる他の悪条件が、科学知識を注意深く応用すれば取り除けるという信仰、すなわち科学主義のもうひとつの主張の一源泉です。
つまり、技術的楽観主義の最も極端な形の場合、技術的に可能であるもの(例えば、人工的な宇宙植民地建設や、人間の多重クローニング)はいずれはなされるべきだと考えます。
この主義は、今は少し流行おくれです。
しかし人がやりたいと思うことはすべて、いずれは技術的に可能になると判明するはずだ、という広く信じられた信仰をちょっと拡張したものにすぎないのです。
この信仰から、「ガン制圧運動」だとか、発展途上国の人口問題を「安定」させるのに産児制限だけに頼るという、あやまった公共政策がたくさん生まれるのです。